「そんなの人それぞれよ」
こんな言葉を聞いた事がない人は、
いないでしょう。
一見それぞれの人の考え方や感じ方
または生き方を尊重しているように
思えますが、それも時と場合による
という事です。
そこでたとえば多くの人が使っている
「そんなの人それぞれよ」という言葉
について考えてみましょう。
まずいい意味で使われる場合
「オレなんだか人より特殊な趣味してる
から、変な奴だと思われてるんやろなー」
に対して
「そんなの人それぞれよ、自分の個性なん
だから自信持って堂々としてればいいよ」
とか
「私、こないだ『彼氏に女は普通そんな事
しねーよ、おまえおかしいって』って
いわれたの」
に対して
「そんなの人それぞれよ、女性にも
いろいろタイプがあるというだけよ
気にしないで」
などという使い方はもちろんオッケーです
ね。
しかもこの場合、相手に真意が伝わるように
別の言葉を添えているというアレンジは
右脳の働きですが、とにかくこのように
使えば「人それぞれ」という言葉はとても
良い表現となります。
しかし「人それぞれ」という言葉は、この
ように適切に使われる事よりも、最近
何でもかんでもこの言葉が使われるように
なってきたようなのです。
そして、それが互いに理解しあえない表現
にもなっている事を、よく感じるように
なりました。
ネットでやはり、その事に気付いてくれた
人のサイトから引用させていただきますね。
「」内が引用、~は中略の意味です。
「僕が「人それぞれ」という思考停止した
言葉が大嫌いな理由
まあ、人それぞれだよね
ああ、そうだね。でも、それを承知でこの
話題を議論してたんだよね?
なんでこの局面でその言葉を出した?
あなたはこういうやりとりでイライラ
したことはありませんか?
最初から「こういう話は人それぞれだと
思うんで答えが出ない」って事を言っと
けば、そういう体で話すよね。
「あぁ、これは熱く話してはいけない場
面だな……」と。
人は議論をするにあたって、各々の個性を
知った上で一つの結論を出さなくては
いけません。それが議論の目的であり、
結論を出したいからこそ人は議論をするの
です。議論とは「お互いの意見を出し
合って理解を深め、物事を解決の方向に
導く手段」。
なのに、この「人それぞれ」という言葉は
意見を交わすことを放棄してる。つまり
「人それぞれ」が口癖の人は他人に対して
意見する資格がないということです。」
“出典:にちプチ様”
この後も記事を展開されておられますが、
少し私の見解とずれているところもある
ためここまで引用させていただきます。
つまり話し合いをしてる途中で、
「人それぞれ」という言葉を出して話し
を終わらせるのは、理解し合う事を放棄
しているという事です。
それぞれが勝手に、思い思いの結論を
持っていればいいという事なのですね。
にちプチ様がいわれる通り、では
なぜ議論し始めた?
という事なのです。
お互いに納得できる結論に至りたかった
から、また物事を理解し合いたかった
からという事です。
ですが、最後に「まあ人それぞれだから」
と互いの意見を、そのままバラバラに
してしまえば、同じ結論を共有する事
も、お互いにわかり合う事も、理解を深め
合う事もみんな放棄してしまえるのです。
つまりみんながつながっているという
共感ではなく、個性の尊重または、個人の
自由を優先させているわけですが、これは
しかし、いつまでもみんながわかり合えない
「分離」の感覚をもたらすものなのです。
そしてまだあります、相手に対して、
とても納得のできる説明で、何か大事な
知識や情報や考え方を説明したとしても
「それについてはいろんな情報があるし
人それぞれだから」
というような答えが、返ってくる事も多い
ですよね。
結局その人には、説明は意味がなく、話を
聞いていなくても、その話題がくれば、
全てその言葉で片付ける事ができてしまい
ます。
つまり「話し合おう、理解し合おうという
意志そのものがないのです」
つまりみんなばらばらの情報を信じて、
バラバラの考え方をしていて良いという事
ですね。
もちろんそれが個性を尊重するためなら
いいですが、ここで聞きたいのは、全ての
意見や考え方は、それで全て同じ様なレベル
なのでしょうか?という事なのです。
やはりそれぞれの人の感性や経験、思考
能力や知識などによって、様々な意見や
考え方があり、それぞれは尊重される
べきではあると思いますが、それが
本人にとって本当に良いものかどうかは
それぞれによって違うはずですよね?
それこそ人と話し合って、お互い意見を
出し合わないと、本人が気付かない良い
視点や情報や知識、考え方などから、
もっと本人にとって良い結論が出る
可能性があるわけです。
つまり話し合いや議論などで、理解を
高め合う、わかり合うという事は、
互いの理解のためにも当然良いし、また
高め合って得られた結論を共有できる
可能性があるのです。
もちろん話し合ってわかり合えない事も
あるかも知れません。
ですが、別の事がわかり合えるかもしれ
ませんし、逆に互いを認め合えるかも
しれないのです。
わかり合えないから、もう会わないなど
とならないようなバランス感覚は当然
必要だとは思いますが、人とつながり
合うために、話し合うというのはとても
大事だと思うのです。
そしてまた話し合う事は、とても
思考能力も鍛えてくれるのです。
しかし学校では、ディベートの時間は
ありません、つまり話し合う事を学ばない
のです。
以前は、海外では盛んに行われていて、
日本では、みられないなどと言われる
事もありましたが、どうやら海外でも同じ
のようなのです。
何故でしょうか?
それは、大衆を従わせるために、大衆の
意見がまとまってしまう事を恐れている
からなのです。
それについては書き始めると長いので
やめておきますね。
このサイトではそのような事について
追求していくのが目的ではないので💦
ですが、みんな結構同じ様な考え方で、
また同じ様な意見をいいます。それは
何故か?実はそれってマスコミや教育で
インプットされた情報や知識を共有して
いるからなんですねー。
ですが、それはつまりインプットされた
ものをそのまま忠実に受け容れている
だけなので、思考能力はほとんど使用
されていません。
だから、ものを考えるくせがついていない
のです。
そしてやはりその教育やマスコミで、私
たちに共有して欲しい知識や情報を
インプットさせれば、大衆の知識や情報
は、その意図を持つ者に従ったものに
になるという事なのです。
そのような思考を働かせて、自分たちだけ
で、話し合い理解しあうためには、実は
とても右脳の働きが大事だという事なの
です。
そうです本当の意味での思考は、実は
右脳の働きなのです。
それについてはまた次回の記事にまわす
事にします。